NEWS

■放課後のピアニスト

2010年04月14日

遠い記憶の望外が、時に急に蘇る事がある。
年月を遥かに越え、今は及ぶべくもない遠い世界での事なのだが、
忽然と何かの拍子にその思い出が浮かぶ。

一度ブログで紹介したいと思っていたが、今日はたまたまその機会を得れた。
それは僕が記憶に留める最初で最後、まあ彼でしか有り得ないピアニストである。

僕たちが中学校生活を送ったのは昭和32年〜35年(偉い昔)である。
小学生時代は校舎も古く、それこそボロボロ?状態だったかな?(昭和26年入学)
1、2年まで、廊下を歩くに素足だった。上履きが必要となったのはその後である。
冬は石炭ストーブで、弁当をストーブの上のブリキ箱に入れて暖めていた。

服には未だ継ぎが当たり、外履きは短靴といって、ゴムの靴だった。
幼い僕らは学校の帰り、その短靴にその頃はそこらじゅうに水路があり小魚がいたから、
小魚を入れ、家まで裸足で歩いたりした。まあ自然児のように大地と合体していた。

親たちは皆生活に追い回され、子供に専念する時代ではなく、唯一生懸命働いていた。
食べ物も今のように豊富じゃなくささやかな物である。腹が減るとご飯しかない。
僕たち以前の子供はそのご飯さえなかったようで、戦中、戦後は飢えて死ぬ人も多かったのである。

さて、多少不自由で物不足ではあったが、僕たちは戦争の恐怖も不安もなく、
別に何がなくてもそんな物かと気にもせず、それでも貧乏、金持ちが厳然と存在し、
子供心に色々な情緒を世間の中での自分の位置で知ることによって成長していった。

中学生はまさに、大人への過渡期であり、人間関係が緻密に個人的となり複雑にもなってくる。
そしてその頃いつも放課後の講堂でピアノを弾く生徒がいた。

講堂の一段高いステージにグラウンドピアノが置いてあり、いつも男子生徒はそこに座っていた。
同級生でKさんと言う。中学生になったとき、僕らはブラスバンドクラブに入部した。

国体が巡ってくる年で、それに合わせて募集したとかで、訳も分からず僕も入部していた。
僕のパートはアルトといって、伴奏専門の金管楽器である。
ブッチャ、ブッチャとアルトは3本だったかな。そして花形のトランペットやサキソホーンもある。

Kさんは最初から鍵盤楽器だった。今ならキーボードという訳だ。
木琴を立てたような金管で音を出していた。
まあよく知らないのだが音楽に対して最初から素養があったのかどうか?

兎に角気付いた頃、いつも放課後のピアノの前に座って夕暮れまで弾いていた。
多分あの頃の田舎の庶民の家にはピアノなど存在しなかった。Kさんもそうである。
中学校で始めてピアノを始めたと思うのだが、その腕が尋常ではなかったのである。

先輩が居るから出しゃばる事は出来ぬが、こんなにピアノに熱中して執心する者もいない。
2年生ぐらいからKさんの専属の場所となったのかな?僕も他の者も一切無頓着だから、
気が付けばいつの間にかそういう状態の放課後だった。

春から夏、秋、冬。四季を通じて講堂から流れるピアノの音が校舎を包んでいた。
僕ら俄かのブラスバンドはどうしたかというと、それが記憶にないのである。
中学時代を一貫して在籍したかどうかも定かでない。中には一生懸命な者もいたが、
僕はあんまり乗り気じゃなかった。

さて、音楽の時間、不思議と記憶の断片は残っている。
音楽の先生はこれまた新進気鋭の先生だった。未だ若く情熱が溢れそうである。

授業中先生がピアノを弾いて、生徒が歌ったり、或いはレコードを聴いて感想を述べたりした。
僕は[ハチャトーりアン]?の[剣の舞]の感想を述べてほめられた記憶がある。
不思議なものでほめられた記憶は残っている。そしてKさんのピアノである。

教室は違ったが、同学年だし同じクラブだから良く知っている。
ふと気付くと物凄く上手いのである。それは秋の校庭を滑らかに滑らかに流れていった。

夏の放課後、ピアノの前のKさんは汗の匂いがした。講堂は熱が蓄積して想像以上に暑い。
Kさんは一心不乱に鍵盤に指を走らせる。その指はまるで白魚のように細く細かくリズミカルだった。
右から左へ、左から右へ、既に腕は途中で交差し、両手の指が本人の思惑と関係なく、
鍵盤の上で遊び戯れ、自在変幻に音を奏でているという雰囲気だった。上手かったのである。

一切我々、他の男子はKさんのような趣味を持ち得ていなかった。今の世なら音楽だ、
ミュージックだと親しみやすく入りやすい時代であるが、
あの頃はそういう環境は全くといって皆無だった。誰の影響もなく真に好きだったのである。

中学生は成長期でもあるし、自我、自己顕示欲も盛んになって来、お互いの牽制も強くなってくる。
思春期が異性への関心を高めさせ、それぞれがそれぞれ生きていく悩みや複雑さを味わっていく。

武闘派や暴力派、正統派、愚連派、勤勉派、怠惰派、情緒派、穏健派、不良派、純情派・・・など等。
校内の様々な例えば裏側での表に出せない事情の中で生き、校外、近所、地域・・など、
様々な中で様々な気苦労や葛藤もあっただろうが、講堂のピアノが鳴らない日はなかった(多分)。

まあ誰もが無関心でもあったのだが、既に彼の腕が音楽教師などを遥かに凌駕している事は知っていた。
ピアノの先生が授業中に弾くピアノと彼のピアノはもう既に曲目からして違っていた。

今になって蘇るのである。一期一会。中学校を卒業して以来、彼の消息は知らない。
多分田舎にいただろう。或いは高校進学、そして大学、もし音楽の道に進んでいたなら、
彼は間違いなく一流のピアニストになっていただろうことは想像に難くない。
あの頃の僕らの田舎では大学へ行く子もいたが、進学に対して無知なる者が多かった。
高校進学さえ三分の一が就職という環境だったのである。

今巷に音楽が溢れ、若いミュージシャンが溢れ返り、クラシックのピアノが盛んになり、
ショパンとかシューベルト、或いはベートーベンと耳に少し慣れてくると、それらの総てが皆、
放課後、校庭に流れたKさんのピアノの調べと重なるのである。
そしてそれらは少しも世界の一流と比べて遜色がない。遠い幼い頃の耳であるが今、
色々な音に馴れ、昔ピアノの先生が弾いたように、大抵は少したどたどしく練習を昇華させて
上手になって、少しハラハラしての演奏となるのだろうが、
Kさんのピアノはまさに独断宙を行くの感だった。

時々ラジオやCDでクラシックを聞くと直ぐに思い浮かぶのがKさんである。
あの鍵盤を走る軽やかな、本当に白魚の踊るような指さばきには、目を見張らされた。
譜面台にはチンプンカンプンに込み入った楽譜が置いてあり、Kさんはその譜面を読んでいる。

時代は僕らの世界を含めてフォーク全盛、ロック全盛となったのだが、
多分Kさんの実力はそこらと一緒に同調するには次元が違っていたと思う。
売ろうと思ったり、商業ベースに乗ろうとする音楽ではなく、唯単にピアノが好きだったのだろう。

僕らが社会に出、高度成長に乗り、総てが一変していく中で、才能も多元化し、
鼻歌まがいの曲作りも人の心を捉えれれば世に出れるというよき時代となった。

汗だくの夏(エアコンはまだ遠かった)、落ち葉散る秋、日暮れが早まり、物悲しい季節、
何処かで微かにピアノの音が流れていた。あの頃は本当に何の知識もなく、
ショパンとかシューベルトとかの高名も知らなかったが、
今思うとそれは本当に凄いことだったなあと思うのである。

もしかしたらKさんはあの頃が最高だったのかな?とも思う。ピークだったかなとも。
そう思わないとKさんに申し訳ない。時代はまだ生活に汲々として、
Kさんをステージに押し上げるという、力量の認識さえが正しく出来ていなかったと思う。

練習は多分自己流というか、自分の思うままだった。何故なら既にピアノの専門教師さえ
傍に寄せ付けることのない技量を発揮していたからである。

自問もしてみる。評価は過大過ぎかなと。でも良く一般のピアニストの音を耳にし、
普通に上達していく過程も見聞きするに及び、又当時の音大出のピアニスト先生と比べても、
Kさんは傑出していた。もしあの時、時代が許し誰かがそれに着目し、
何処かのコンテストなどに出ていたなら、若しかしてとなど思うのである。

まあ、それも含めて人生は様々な要因に裏打ちされている。
一概に言えず、どうこう言えないが、このように市井のどこかで才ある人が沢山埋もれ、
又何かの拍子に誰かに影響を与えて、伝えている事も多いのではないかと思うのである。

翻(ひるがえ)ってつくづく人は、人生は結局一期一会なのだなと思う。
小学、中学、高校、大学、社会人・・、誰もがその後の消息を曖昧にしていく。

クラシックの名曲を聴くたび、殺風景でだだっ広い講堂と、落ち葉降る校舎を思い、
今思えば哲学的にさえ思える孤高のピアニスト。一人黙々と静かに淡々と、
誰が聞くでもないピアノ演奏だったが、然しそれはあの頃在校の皆の心を潤し、
耳を傾けさせた事には間違いない。

そして何より生き生きとしていた。緩急、強弱・・、Kさんの思いが一杯詰まっていた。
どんなに高名なピアニストのレコードを流すより、生き生きとそれは躍動し、校舎の隅を流れた。
Kさんは何であんなに一生懸命弾いていたのだろうか。
今になってふと思うのである。誰もが知りえない矢張り物語があったのだろうか。

故郷も遠く、時の流れも大きくうねり、多感な時代は既に遠い。
今更何を尋ねるより、何を知るより、時々ふとよみがえる思い出の方が雄弁に語ってくれる。
それは静かに深く、そして何より優しさがあちこちに散りばめられている。
過ぎ去れば総てが浄化され、美しく美化されるもののようである。

この記事へのコメント

名前
メール
URL
コメント


   画像に表示されている文字を半角英数で入力してください。